観たのは、昨年末池袋「新文芸坐」の「シネマ・カーテンコール2003」である。

1923年、ロンドン。作家ヴァージニア・ウルフは病気療養のためこの地に移り住み、「ダロウェイ夫人」を執筆していた。午後にはティー・パーティが控えている・・・・。
1951年、ロサンジェルス。「ダロウェイ夫人」を愛読する妊娠中の主婦ローラ・ブラウンは、夫の望む理想の妻を演じることに疲れながらも、夫の誕生パーティを開くためケーキを作り始める・・・・。
2001年、ニューヨーク。「ダロウェイ夫人」の主人公と同じ名前の編集者クラリッサ・ヴォーンは、親しい友人でエイズ患者の作家リチャードが栄えある賞を受賞したことを祝うパーティの準備に取りかかっていた・・・・。

一言で言うと傑作である。

まず、脚本が凄い。
というか、脚本が持つミス・デレクションの構成が凄いのだ。
具体的にはネタバレになるので言えないが、ラスト部分のウルトラC的着地(ミッシング・リンクが繋がった感じ)のようなエピローグ的結末のつけ方は、もう拍手喝采モノなのである。

この脚本により、この映画は○の物語だと思っていたが、実は○の物語だったのだ。という衝撃の事実が体験できるのだ。

実際は、途中のニコール・キッドマン演じるヴァージニア・ウルフの「作家を殺すことにした」の台詞から派生するシークエンスについて、シンクロニシティ部分の不一致に疑問は湧いたのだが、観客は見事にミス・デレクションされているのだ。


俳優は、エド・ハリスとジョン・C・ライリーという曲者男性陣は居るものの、基本的にはニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープ等女性陣の映画である。

エド・ハリスは良かったし、ジョン・C・ライリーも良かった。最近出ずっぱりのライリーだが、「シカゴ」のセロファン・マンにも似た印象を受けた。
エド・ハリスはトム・ハンクスの「フィラデルフィア」と比較すると面白いかもしれない。

わたし的にはメリル・ストリープが良かったのだ。
どちらかと言うと好きな女優では無いのだが、とても良い印象を受けたのだ。彼女の映画の中で一番だと思いますね。素晴らしい生き様を体現しているのだ。

ジュリアン・ムーアは普通の女性を普通に演じているのが良かった。あたりまえをあたりまえに見せるところが良い。「ファム・ファタール」のレベッカ・ローミン=ステイモスや「シカゴ」のレニー・ゼルウィガーっぽい印象も受けた。

ニコール・キッドマンはエキセントリックだった。破滅的、刹那的な作家人生を感じる。「アイリス」と比較すると面白いかも知れない。

監督は「リトル・ダンサー」のスティーヴン・ダルドリー。
晩成型の作家ではあるが、先が楽しみな作家である。

ところで、この映画の構成は前提として、1923年の小説執筆が、1951年、2001年に影響を与える構成を持っている。
その状況の中、「作家を殺すことにした」のシークエンスに若干の疑問を感じるのだ。

この辺の議論はスティーヴン・キングの「骨の袋」が詳しいが、曰く物語を面白くするために、「いくらフイクションといえども、観客や読者に感情移入をさせたキャクターを簡単に死なせるのはどうか」、という議論がある。

その観点から言うと、ニコール・キッドマン演じるヴァージニア・ウルフは自らの作品「ダロウェイ夫人」の着想中、恣意的に、あくまでも恣意的に「作家を殺すことにするのである」そしてその結果、この映画の構成上、2001年の出来事に大きな影響を与えることになるのだ。
その時点で既に観客に取っては、最早かけがえの無い存在となっているキャラクターに。
そしてそのキャラクターを愛するものの悲嘆は観客と完全に一致するのである。

前述の議論を考えると、この作品「めぐりあう時間たち」では、「いくらフイクションといえども、観客や読者に感情移入をさせたキャクターを簡単に死なせるのはどうか」、これを如実に表現しているのだ。

とは言うものの、「作家を殺すことにした」のシークエンスは別の観点から見ると、予定調和的な美しい印象を観客に与えていることも否定できない事実なのである。

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tkr

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