「トーク・トゥ・ハー」
2003年12月17日ペドロ・アルモドバル監督作品「トーク・トゥ・ハー」を池袋「新文芸坐」の2003年の作品を振返る企画上映で観た。
同時上映は先日お話した通り「過去のない男」。
物語のアウトラインは、
4年前に交通事故に遭い、それ以来昏睡状態に陥ったまま一度も目覚めることのないアリシアと、彼女を4年間の間、献身的に看護し、毎日語り続けているベニグノ、そして、アリシアと同様に、競技中の事故で昏睡状態に陥ってしまった女闘牛士リディアと、彼女の突然の昏睡状態に悲嘆にくれる恋人マルコ。
ベニグノとマルコは同じクリニックで顔を合わすうち、いつしか言葉を交わすようになり、互いの境遇を語り合う。
そして、二人は似たような境遇の下、次第に友情を深めていく・・・・。
というもの。
わたしは本作の劇場予告編を観て、本作を観たくて観たくて仕方がなかったのだが、封切り公開時に結局見逃してしまい、今回の企画上映で、やっと観る事が出来た訳である。
わたしの第一印象は、大変素晴らしい映画を観た。というものだ。
「二人の女性が昏睡状態に陥り、二人の男性が昏睡状態の女性をそれぞれ愛する」という物語の骨子は、既に多くの観客にとって、劇場予告編等を通じて周知の事実だったのだが、わたしは本作冒頭の舞台のシークエンスから続くクリニックを舞台としたベニグノとアリシアのシークエンスで驚かされた。
そう、アリシアは既に昏睡状態で、ベニグノは彼女の看護をしていたのである。
勿論、結果的に本作は時間軸を解した上で、再構成されている訳ですから、冒頭シーンで既にアリシアが昏睡状態にあることについてては、本来驚くべこきことではないのだが、この時間軸の分割再構成は、うれしい誤算だった訳である。
この時間軸の分割再構成による本作の構成は見事で、脚本的にも十分満足の行く作品に仕上がっていた。
撮影や演出的描写は、舞台のシークエンスと劇中映画のシークエンス以外は比較的ストレートな手法がとられており、偶然が度重なる物語に対し、リアリティを付与することに成功している。
冒頭とラストに挿入される舞台のシークエンスと、中盤に挿入される劇中映画のシークエンスは、ほぼ明確に本作の物語への言及と暗喩がされており、雰囲気は本作のそれと異なるものの、良い効果を与えている。
キャストについては、先ずベニグノを演じたハヴィエル・カマラは、見るからに微妙な部分で常軌を逸しているように見えてしまう部分が、なんとも釈然としないが、それを除けば良い仕事をしている。
「グラディエーター」のホアキン・フェニックスのような微妙な異常性が感じられた。
一方、マルコを演じるダリオ・グランディネッティは、観客の良心的代弁者的役割で、観客の感情移入しやすい役柄となっていた。
こういった俳優を主役に据えることに対し、ヨーロッパの文化の高さを感じる。
物語が始まった時点で既に昏睡状態に陥っていたアリシア役のレオノール・ワトリングは、没個性的で受動的な演技(何もしないという演技)を見せており、あまり魅力を感じないが、本作のラスト近辺での彼女には溢れんばかりの魅力を感じる。
彼女の多くのシーンが昏睡状態としい、役柄上評価は難しいところだが、ラストの演技だけで、素晴らしい演技を見せているような印象を受けてしまう。
これはマルコがアリシアを発見する表情と相まって、素晴らしいシーンに仕上がっている。
これは後の舞台でのシーンにも繋がっている。
リディアを演じるロサリオ・フローレスはアリシアと比較すると対極的な印象を受ける。彼女の行動力や性格がアリシアの昏睡状態による女性陣のパワー不足を見事に補っている。
さて、アリシアに感情移入した観客により、非難されているベニグノの行為だが、これを考える上で、前提となるのは、
1.この行為は、愛情から派生している。
2.この行為は、男性の本能の発露である。
3.ベニグノは犯罪者として法で裁かれ、罪を償っている。
という点を考えなければならない。
感情的に「ベニグノの行為を許せない」、というのは観客にとって至極簡単だが、観客に求められているのは、「ベニグノの行為を理解する」ということである。
わたしたち観客は、観客の代弁者であり良識のメタファーであるマルコの目を通じてベニグノの行為を見ることになる。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」や「アレックス」なんかもそうでなのだが、本作同様物語のアウトラインのみを見て、感情的に物語を否定しているようだと、映画を理解することなど不可能なのだ。
感情だけではなく、論理で映画を感じ、その上で理解しなければ、監督の意図などつかめないのだ。
同時上映は先日お話した通り「過去のない男」。
物語のアウトラインは、
4年前に交通事故に遭い、それ以来昏睡状態に陥ったまま一度も目覚めることのないアリシアと、彼女を4年間の間、献身的に看護し、毎日語り続けているベニグノ、そして、アリシアと同様に、競技中の事故で昏睡状態に陥ってしまった女闘牛士リディアと、彼女の突然の昏睡状態に悲嘆にくれる恋人マルコ。
ベニグノとマルコは同じクリニックで顔を合わすうち、いつしか言葉を交わすようになり、互いの境遇を語り合う。
そして、二人は似たような境遇の下、次第に友情を深めていく・・・・。
というもの。
わたしは本作の劇場予告編を観て、本作を観たくて観たくて仕方がなかったのだが、封切り公開時に結局見逃してしまい、今回の企画上映で、やっと観る事が出来た訳である。
わたしの第一印象は、大変素晴らしい映画を観た。というものだ。
「二人の女性が昏睡状態に陥り、二人の男性が昏睡状態の女性をそれぞれ愛する」という物語の骨子は、既に多くの観客にとって、劇場予告編等を通じて周知の事実だったのだが、わたしは本作冒頭の舞台のシークエンスから続くクリニックを舞台としたベニグノとアリシアのシークエンスで驚かされた。
そう、アリシアは既に昏睡状態で、ベニグノは彼女の看護をしていたのである。
勿論、結果的に本作は時間軸を解した上で、再構成されている訳ですから、冒頭シーンで既にアリシアが昏睡状態にあることについてては、本来驚くべこきことではないのだが、この時間軸の分割再構成は、うれしい誤算だった訳である。
この時間軸の分割再構成による本作の構成は見事で、脚本的にも十分満足の行く作品に仕上がっていた。
撮影や演出的描写は、舞台のシークエンスと劇中映画のシークエンス以外は比較的ストレートな手法がとられており、偶然が度重なる物語に対し、リアリティを付与することに成功している。
冒頭とラストに挿入される舞台のシークエンスと、中盤に挿入される劇中映画のシークエンスは、ほぼ明確に本作の物語への言及と暗喩がされており、雰囲気は本作のそれと異なるものの、良い効果を与えている。
キャストについては、先ずベニグノを演じたハヴィエル・カマラは、見るからに微妙な部分で常軌を逸しているように見えてしまう部分が、なんとも釈然としないが、それを除けば良い仕事をしている。
「グラディエーター」のホアキン・フェニックスのような微妙な異常性が感じられた。
一方、マルコを演じるダリオ・グランディネッティは、観客の良心的代弁者的役割で、観客の感情移入しやすい役柄となっていた。
こういった俳優を主役に据えることに対し、ヨーロッパの文化の高さを感じる。
物語が始まった時点で既に昏睡状態に陥っていたアリシア役のレオノール・ワトリングは、没個性的で受動的な演技(何もしないという演技)を見せており、あまり魅力を感じないが、本作のラスト近辺での彼女には溢れんばかりの魅力を感じる。
彼女の多くのシーンが昏睡状態としい、役柄上評価は難しいところだが、ラストの演技だけで、素晴らしい演技を見せているような印象を受けてしまう。
これはマルコがアリシアを発見する表情と相まって、素晴らしいシーンに仕上がっている。
これは後の舞台でのシーンにも繋がっている。
リディアを演じるロサリオ・フローレスはアリシアと比較すると対極的な印象を受ける。彼女の行動力や性格がアリシアの昏睡状態による女性陣のパワー不足を見事に補っている。
さて、アリシアに感情移入した観客により、非難されているベニグノの行為だが、これを考える上で、前提となるのは、
1.この行為は、愛情から派生している。
2.この行為は、男性の本能の発露である。
3.ベニグノは犯罪者として法で裁かれ、罪を償っている。
という点を考えなければならない。
感情的に「ベニグノの行為を許せない」、というのは観客にとって至極簡単だが、観客に求められているのは、「ベニグノの行為を理解する」ということである。
わたしたち観客は、観客の代弁者であり良識のメタファーであるマルコの目を通じてベニグノの行為を見ることになる。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」や「アレックス」なんかもそうでなのだが、本作同様物語のアウトラインのみを見て、感情的に物語を否定しているようだと、映画を理解することなど不可能なのだ。
感情だけではなく、論理で映画を感じ、その上で理解しなければ、監督の意図などつかめないのだ。
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