繰り返しも多々ありますが・・・・

わたしは現在のところ『キル・ビル Vol.1』を3回ほど観ていますが、本作を1本の独立した映画だと考えた場合、つまり『キル・ビル Vol.2』が公開されていない今言えるのは、態度を保留するか、強いて言えば、つまらない映画だと言わざるを得ない、という印象を持っています。

またわたしのバック・グラウンドとして所謂B級映画も好きですし、以前は「東京ファンタ」の常連でした。


そんなわたしが感じる、全国拡大ロードショーされている作品としての『キル・ビル Vol.1』がつまらない理由は、

1.シナリオがつまらない
 わたしにとってのタランティーノ作品の魅力は「ヴァイオレンスと引用とシナリオ」です。
 特にわたしは「シナリオ」に魅力を感じます。『レザボアドッグス』を渋谷のミニシアターで観た際、とんでもない才能を持った奴が出てきたな、と感じ、その足で輸入版LDを買いにいった位の感動を受けたのですが、その感動の根本は、(これはキューブリックの引用ですが、)時系列をバラバラにした各シークエンスが最後の最後にピタリと決まる「シナリオの妙」だったのです。
 これは「パルプ・フィクション」にも継承されるものですし、時系列はともかく「シナリオの妙」は「トゥルー・ロマンス」や「クリムゾン・タイド」、「フロム・ダスク・ティル・ドーン」等にも言える事だと思います。
 しかしながら、本作『キル・ビル Vol.1』の基本プロット部分のシナリオはなんともつまらないのです。シーン毎、シークエンス毎のシナリオは面白いしセリフも良い、シーン毎の完成度は高いので、非常に残念です。
 もしかすると『キル・ビル Vol.2』が公開された後、もしかしたらカチッと決まる「シナリオの妙」が味わえるのかも知れませんが、時系列と空間をバラバラにしている本作では、ちょっと難しいのではないか、と思います。
 (逆に演出の技術は向上しているようですね。)

2.やりすぎ
 本作はタランティーノが従来の手法である「シナリオ」ではなく「アクション」で物語を語る、という主旨で製作している映画ですから、「アクション」が映画本体の、最も重要な構成要素となっています。
 「アクション」や「VFX/SFX等の特撮」は観客が「もう少し見たいな」という腹八分目で抑えるのが常套手法であり、わたしもそう考えています。
 例えば「マトリックス」3部作の後半のように、アクション・シークエンスがダラダラと続くと、その冗長なアクション・シーンは退屈でつまらないものになってしまいます。
 『キル・ビル Vol.1』でもその傾向があり、クライマックス近辺最大の見せ場である「青葉屋」のシークエンスにおける、「クレイジー88の雑魚キャラVSザ・ブライド」のシークエンスは、もうただただ退屈でしまりのないものに仕上がっています。ゴードン・リューやゴーゴー・夕張との絡みは良いものだっただけに残念です。

 また、本作は「ユーモア」や「ウィット」ではなく、「コメディ」の分野まで足を踏み入れているのも、やりすぎの感は否めません。
 サニー・チバはもうほとんどコミック・リリーフとしての役割を振られているし、前述の「クレイジー88の雑魚キャラVSザ・ブライド」のシークエンスは「お笑い」以外の何ものでもないでしょう。

 わたし的には、「クレイジー88の残酷描写」ではなく「クレイジー88のお笑い描写」が、いただけないのです。

3.一貫性の欠如
 ひとそれぞれ『キル・ビル Vol.1』やタランティーノに何を求めているのかは異なると思いますが、わたしがタランティーノに求めていたのは、「オキナワの漫才とクレイジー88の雑魚キャラ」以外の部分のテイスト、特にオキナワに来るまでの前半部分のテイストです。
 事実、オープニングから、キッチンでのアクション、教会、病院でのシークエンスには感動すら覚えてしまいます。
 これがオキナワでは、刀を拝領(?)するシーン以外は最早悪乗り系の漫才としか思えないのです。
 これは、前述の「やりすぎ」にも通じますが、物語を描く上でのスタンスの一貫性の欠如を感じます。

 タランティーノの敬愛する多くの所謂B級作品は、それぞれ統一された世界観と、物語を語る上でのスタンスの一貫性は統一されていることが非常に多いと思うのですが、本作『キル・ビル Vol.1』は多くの作品からの引用や言及に満ち溢れているためか、物語を語る上のスタンスの一貫性が欠如している、と感じられるのです。

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