「アバウト・シュミット」
2003年6月18日世の中には、怪しげな宗教法人が沢山ある。
謎の花器を売る、謎の宝飾品を売る、多大の寄附を要求する、謎の行為を行う。
しかしながら、傍目から見て、いかにもだまされているように見える信者であっても、本人が救われている、という感覚を得ているのならば、それはそれで良い宗教なのだ。
で、「アバウト・シュミット」であるが、シュミットにとって、子供を救うために、わずかな寄附を行い、読まれるかどうかわからない手紙に心情を吐露し、見返りに心の平安と浄化が得られるのならば、これはシュミットにとっての宗教といえるのではないだろうか。
彼にとっての里親制度は、懺悔に他ならないのである。
またこの映画、黒澤の「生きる」である。という観点もあるのだが、「生きる」は最後に何かを成し遂げた男の物語であり、この「アバウト・シュミット」は何も残せなかった数多くの人々の映画なのである。
凡百の大衆の「生きる」なのである。
ジャック・ニコルソンといえば、わたしにとっては「イージー・ライダー」と「シャイニング」であるが、今回の「アバウト・シュッミト」は、「シャイニング」のニコルソンを髣髴とさせるシーンの目白押しだったりするのである。
謎の花器を売る、謎の宝飾品を売る、多大の寄附を要求する、謎の行為を行う。
しかしながら、傍目から見て、いかにもだまされているように見える信者であっても、本人が救われている、という感覚を得ているのならば、それはそれで良い宗教なのだ。
で、「アバウト・シュミット」であるが、シュミットにとって、子供を救うために、わずかな寄附を行い、読まれるかどうかわからない手紙に心情を吐露し、見返りに心の平安と浄化が得られるのならば、これはシュミットにとっての宗教といえるのではないだろうか。
彼にとっての里親制度は、懺悔に他ならないのである。
またこの映画、黒澤の「生きる」である。という観点もあるのだが、「生きる」は最後に何かを成し遂げた男の物語であり、この「アバウト・シュミット」は何も残せなかった数多くの人々の映画なのである。
凡百の大衆の「生きる」なのである。
ジャック・ニコルソンといえば、わたしにとっては「イージー・ライダー」と「シャイニング」であるが、今回の「アバウト・シュッミト」は、「シャイニング」のニコルソンを髣髴とさせるシーンの目白押しだったりするのである。
コメント